Exhibition
‘FURUSATO’
foo, Tokyo
July 3 〜 31 2004
‘FURUSATO’
foo, Tokyo
July 3 〜 31 2004
写真と文=茂木綾子
HEIMART(ハイマート)という言葉がドイツ語にある。英語でいうとHOME(ホーム)にあたるのかもしれない。でも単に家とか我が家というよりは、故郷とか、ふるさとといった、心の中で思うなつかしい場所という意味合いだと思う。
ドイツに住み、家族を持つようになって6年近く経つけれど、別にドイツに住むことを願っていたわけではなく、旅の途中にちょっと立ち寄った場所だったのに、気づくとずいぶん長いことこの場所にいることになってしまった。それでも実際にマイノリティの立場になってみる経験は、家に対しても多方向から見ていく訓練になるので、いい体験ではあったと思う。日本でいいと思われているようなことも、ドイツでは良くないことになってしまうこと、またはその逆、といった習慣は多々あって、何がいったい良いのか悪いのか、確固としたものなど何もないという思いが自然に生まれてくる。
なれない言葉を話し、なれない食べ物を食べ、なれない習慣を覚えて暮らすのは、刺激が多い反面、楽ではないと、誰しも思うことだろう。何から何まで面倒なことが多く、なかなかここが自分のホームという気はしてこない。そして同時に、ふるさとの日本も、日に日に遠ざかっていく。日本での習慣や性格から、どんどん自分がドイツ人的なものの見方、考え方、ふるまいになっているのに、はたと気づく。否が応でも、熱い水は冷たい水の方へと混ざっていくように、または赤を見せられれば赤に、黒を見せられれば黒になっていくような感じだと思う。日本人でもなくドイツ人でもなく、なにか宙に浮いたような存在、ノマド的な人種に近づいてきているのだろうか。もしかしたら無意識にノマド化することへ向かっていたのかもしれないな、と最近思う。
ふるさとを離れよく思うようになったことは、日々の中にふいに訪れる瞬間的ホームのこと。ホームを去ったことで逆に、どこでもホームを持とうと心が努力しているせいなのか。でも深く考えてみれば、遠い昔からその瞬間に自分は支えられてきたのだなと、明確に理解できるようになったということだと思う。きっとそのために私はいろいろな場所へ行く必要があったのだろう。
たとえば日常の中では、行きたくもないのに子どもの凧揚げにつきあわされて、家の裏の空き地の枯れ始めた草の上にごろんと寝転がって、空に浮かぶ黄色い凧を見上げると、秋の冷たい光と色がくっきりと見えてくる。凧はものすごい力で子どもの手から糸を引いている。子どもはばかみたいにはしゃいで走りまわり、遠くで犬が吠えているのが聞こえる。何の意味もない、ぽっかりと生まれてしまったこういう無駄な瞬間に、時間が止まったような、巨大なものが、空に浮かんでいるような、力強い感じを覚えるとき、ああ、これだ、これだった、不思議な充足感。初めて訪れる人の家に時間より早く着いてしまって、仕方なくぼんやりとその辺りを歩きまわり、ちょっとした石垣に腰をおろして、たばこを一服しながら道端の雑草が目に入る。その背後にぼんやりと浮かぶ緑の空間が見えてくる。こういうときも、ぽっかりと時間が止まる絶好の機会。
旅をしている時などはよく、バスや列車、船の待ち時間といった、移動の途中のなんでもない場所で、無駄な時間を過ごしながら、見知らぬ人たちが通り過ぎていく風景を見ていたり、道に迷って見捨てられたような淋しい場所にぽつんと立ち止まったりしてしまうことが、日常生活よりも多くやってきやすいのかもしれない。じつは旅の目的以上に、そういう瞬間に焼き付けられた映像が、心に深く刻まれていて、突然それを思い出すことがよくある。
逆に、特別刺激的な状況でのこともある。アリゾナの砂漠でキャンプしていた夜のこと。満月が輝いて、コヨーテの鳴き声が、それほど遠くないところで聴こえる。サボテンの生えている砂山を歩く自分の影が、ながーくのびている。寒いので、分厚い羊の毛皮のコートを着て、手袋をはめ、木の棒を杖にして、まるで月に到着した宇宙飛行士みたいに、ぬいぐるみを着たような歩き方で歩く自分の影に手を振ったり、頭の上に丸い輪をつくったりして遊んだ。ふと声をかけられたように後ろを振り返ると、月明かりで青い夜空に真っ白な雲が広がっていた。その空があまりに美しいので、今死んでしまってもいいや、と思いながら、完璧に満たされていた直後、ああ、これを日本にいる、あの人にも見せてあげたいな、という思いが浮かんだ瞬間、引き戻されるように涙があふれてきた。
たった一度だけ、夜の海を裸で泳いだ時のことも忘れられない。上も下もまわりもすべて真っ暗闇。星と船の小さな白い光が、すべての方向で、きらきらと光っている。あたたかい水の感触が、黒いゼリーの中にいるようで、おしりから水が入ってくるのが気持ちいい。魚はみんな裸で泳いでいるんだ、とあらためて思う。自分が砂浜に打ち上げられた、カメか両生類のような気がして、暗闇と海に、安らかに迎え入れられているようだった。
小さい時、夏休みに家族で夜中に車に乗り込み、夜の高速道路を走るのが何より好きだった。どこかへ向かって、闇に光るライトを見ながら、空の中を走っていくみたいで。
そういう記憶が、子どもの頃からたくさん、自分の中に大切に残っている。ぽっかりとやってくる瞬間に見える何かから、届かない奥にある何かを連想していく。その瞬間が心に焼きつく時、永遠になった瞬間の中に、何が隠れているのか。その安らかさには、何かあるなと強く思う。安らかな瞬間の何かが、自分の行くべき道を、いつも背後でささやきながら、見守り、教えてくれているように思う。ノマドとは、ホームを失った人という意味とともに、ホームの記憶をつねに持ち歩く人びとのこと、と何かの本に書いてあった。どこにいても、心が安らかでいられるなら、その時が、そしてその記憶たちが私のふるさとだと思っている。
——展覧会パンフより
—
HEIMART(ハイマート)という言葉がドイツ語にある。英語でいうとHOME(ホーム)にあたるのかもしれない。でも単に家とか我が家というよりは、故郷とか、ふるさとといった、心の中で思うなつかしい場所という意味合いだと思う。
ドイツに住み、家族を持つようになって6年近く経つけれど、別にドイツに住むことを願っていたわけではなく、旅の途中にちょっと立ち寄った場所だったのに、気づくとずいぶん長いことこの場所にいることになってしまった。それでも実際にマイノリティの立場になってみる経験は、家に対しても多方向から見ていく訓練になるので、いい体験ではあったと思う。日本でいいと思われているようなことも、ドイツでは良くないことになってしまうこと、またはその逆、といった習慣は多々あって、何がいったい良いのか悪いのか、確固としたものなど何もないという思いが自然に生まれてくる。
なれない言葉を話し、なれない食べ物を食べ、なれない習慣を覚えて暮らすのは、刺激が多い反面、楽ではないと、誰しも思うことだろう。何から何まで面倒なことが多く、なかなかここが自分のホームという気はしてこない。そして同時に、ふるさとの日本も、日に日に遠ざかっていく。日本での習慣や性格から、どんどん自分がドイツ人的なものの見方、考え方、ふるまいになっているのに、はたと気づく。否が応でも、熱い水は冷たい水の方へと混ざっていくように、または赤を見せられれば赤に、黒を見せられれば黒になっていくような感じだと思う。日本人でもなくドイツ人でもなく、なにか宙に浮いたような存在、ノマド的な人種に近づいてきているのだろうか。もしかしたら無意識にノマド化することへ向かっていたのかもしれないな、と最近思う。
ふるさとを離れよく思うようになったことは、日々の中にふいに訪れる瞬間的ホームのこと。ホームを去ったことで逆に、どこでもホームを持とうと心が努力しているせいなのか。でも深く考えてみれば、遠い昔からその瞬間に自分は支えられてきたのだなと、明確に理解できるようになったということだと思う。きっとそのために私はいろいろな場所へ行く必要があったのだろう。
たとえば日常の中では、行きたくもないのに子どもの凧揚げにつきあわされて、家の裏の空き地の枯れ始めた草の上にごろんと寝転がって、空に浮かぶ黄色い凧を見上げると、秋の冷たい光と色がくっきりと見えてくる。凧はものすごい力で子どもの手から糸を引いている。子どもはばかみたいにはしゃいで走りまわり、遠くで犬が吠えているのが聞こえる。何の意味もない、ぽっかりと生まれてしまったこういう無駄な瞬間に、時間が止まったような、巨大なものが、空に浮かんでいるような、力強い感じを覚えるとき、ああ、これだ、これだった、不思議な充足感。初めて訪れる人の家に時間より早く着いてしまって、仕方なくぼんやりとその辺りを歩きまわり、ちょっとした石垣に腰をおろして、たばこを一服しながら道端の雑草が目に入る。その背後にぼんやりと浮かぶ緑の空間が見えてくる。こういうときも、ぽっかりと時間が止まる絶好の機会。
旅をしている時などはよく、バスや列車、船の待ち時間といった、移動の途中のなんでもない場所で、無駄な時間を過ごしながら、見知らぬ人たちが通り過ぎていく風景を見ていたり、道に迷って見捨てられたような淋しい場所にぽつんと立ち止まったりしてしまうことが、日常生活よりも多くやってきやすいのかもしれない。じつは旅の目的以上に、そういう瞬間に焼き付けられた映像が、心に深く刻まれていて、突然それを思い出すことがよくある。
逆に、特別刺激的な状況でのこともある。アリゾナの砂漠でキャンプしていた夜のこと。満月が輝いて、コヨーテの鳴き声が、それほど遠くないところで聴こえる。サボテンの生えている砂山を歩く自分の影が、ながーくのびている。寒いので、分厚い羊の毛皮のコートを着て、手袋をはめ、木の棒を杖にして、まるで月に到着した宇宙飛行士みたいに、ぬいぐるみを着たような歩き方で歩く自分の影に手を振ったり、頭の上に丸い輪をつくったりして遊んだ。ふと声をかけられたように後ろを振り返ると、月明かりで青い夜空に真っ白な雲が広がっていた。その空があまりに美しいので、今死んでしまってもいいや、と思いながら、完璧に満たされていた直後、ああ、これを日本にいる、あの人にも見せてあげたいな、という思いが浮かんだ瞬間、引き戻されるように涙があふれてきた。
たった一度だけ、夜の海を裸で泳いだ時のことも忘れられない。上も下もまわりもすべて真っ暗闇。星と船の小さな白い光が、すべての方向で、きらきらと光っている。あたたかい水の感触が、黒いゼリーの中にいるようで、おしりから水が入ってくるのが気持ちいい。魚はみんな裸で泳いでいるんだ、とあらためて思う。自分が砂浜に打ち上げられた、カメか両生類のような気がして、暗闇と海に、安らかに迎え入れられているようだった。
小さい時、夏休みに家族で夜中に車に乗り込み、夜の高速道路を走るのが何より好きだった。どこかへ向かって、闇に光るライトを見ながら、空の中を走っていくみたいで。
そういう記憶が、子どもの頃からたくさん、自分の中に大切に残っている。ぽっかりとやってくる瞬間に見える何かから、届かない奥にある何かを連想していく。その瞬間が心に焼きつく時、永遠になった瞬間の中に、何が隠れているのか。その安らかさには、何かあるなと強く思う。安らかな瞬間の何かが、自分の行くべき道を、いつも背後でささやきながら、見守り、教えてくれているように思う。ノマドとは、ホームを失った人という意味とともに、ホームの記憶をつねに持ち歩く人びとのこと、と何かの本に書いてあった。どこにいても、心が安らかでいられるなら、その時が、そしてその記憶たちが私のふるさとだと思っている。
——展覧会パンフより
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photographs & text by Ayako Mogi
The word “heimart” is a German word. In English, it might be called “home”. But rather than just home or my home, I think it has the meaning of a nostalgic place that one feels in one’s heart, like a hometown or a hometown.
It’s been almost six years since I started living in Germany and having a family, but I didn’t really want to live in Germany, it was just a place I stopped by during my travels, but I ended up staying here for quite a long time. Even so, I think it was a good experience for me to actually put myself in the minority’s shoes, as it gives me the opportunity to learn how to look at home from multiple angles. There are many customs that are considered good in Japan but bad in Germany, or vice versa, and I naturally feel that there is nothing definite about what is good or bad.
Living in a place where you speak an unfamiliar language, eat unfamiliar food, and learn unfamiliar customs is stimulating, but not easy. There are many troublesome things to do, and it is hard to feel like this is your home. At the same time, Japan, my hometown, is getting further and further away from me every day. Because of my habits and personality in Japan, I realized that I was becoming more and more German in my views, thoughts, and behavior. I think it’s like hot water mixing with cold water, or red with red, or black with black. I wonder if I am becoming more and more like a nomadic race, neither Japanese nor German, but something floating in the air. Recently, I’ve been thinking that maybe I’ve been unconsciously moving toward becoming a nomad.
What I often think about when I leave my hometown is the momentary home that suddenly comes to me in my daily life. I wonder if it’s because I’m striving to have a home anywhere, now that I’ve left it. But if I think about it deeply, I think it’s because I’ve come to understand clearly that I’ve been sustained by those moments since long ago. I guess that’s why I had to go to so many places.
For example, in my daily life, I am forced to accompany a child flying a kite even though I don’t want to go. I lie down on the grass that is beginning to die in the vacant lot behind my house and look up at the yellow kite floating in the sky, and I can clearly see the cold light and colors of autumn. The kite is pulling the string from the child’s hand with tremendous force. The kite is pulling the string from the child’s hand with great force, the child is running around like a fool, and I can hear the dog barking in the distance. In these useless, meaningless moments, when time seems to have stopped and I feel a powerful sense of something huge floating in the sky, this is it, this is it. I arrived at the house of someone I was visiting for the first time before the time was up, so I had no choice but to walk around the area in a daze, sit down on a little stone wall, smoke a cigarette, and see the weeds on the side of the road. I sit down on a little stone wall, smoke a cigarette, and look at the weeds on the side of the road, and see the green space floating vaguely behind it. It’s a perfect opportunity to stop time for a moment.
When I am traveling, I often find myself wasting time in the middle of nowhere, waiting for a bus, train, or boat, watching strangers pass by, or stopping in lonely places where I feel lost and abandoned. It may be that we tend to come here more often than in our daily lives. In fact, more than the purpose of the trip, the images burned in those moments are deeply etched in my mind, and I often find myself suddenly remembering them.
On the other hand, there are times when the situation is exceptionally exciting. It was a night when I was camping in the Arizona desert. The full moon was shining and I could hear the cries of coyotes not too far away. My shadow stretched long as I walked along a sandy hill covered with cactus. It was cold, so I put on a thick sheepskin coat, gloves, and a wooden stick as a walking stick. I waved at my shadow, which walked like a stuffed animal, like an astronaut who had arrived at the moon, and made a circle on my head. Suddenly, as if I had been called, I looked back and saw white clouds in the moonlit blue night sky. The sky was so beautiful that I thought I could die right now, and right after I was filled with perfection, the thought came to my mind that I would like to show this to that person in Japan, and tears welled up in my eyes as if I were being pulled back.
I’ll never forget the one time I swam naked in the ocean at night. It was pitch black above, below, and all around. The stars and the tiny white lights of the ships were glittering in all directions. The feel of the warm water was like being in a black jelly, and it felt good to feel the water coming in through my hips. All the fish are swimming naked, I thought again. I felt like I was a turtle or an amphibian washed up on the beach, being welcomed peacefully by the darkness and the sea.
When I was little, I loved nothing more than to get into the car with my family in the middle of the night during summer vacation and drive down the highway at night. It was like driving through the sky, heading somewhere, watching the lights glow in the darkness.
Many of these memories have remained with me since my childhood. From something that I see in a moment that comes to me in a flash, I associate it with something that lies deep within that I cannot reach. When the moment is burned into my mind, I wonder what is hidden in the moment that has become eternal. I strongly believe that there is something in that peacefulness. Something in that peaceful moment always seems to be whispering behind me, watching over me, telling me the path I should take. I read in a book that nomads are people who have lost their homes, and also people who always carry the memory of their homes with them. Wherever I am, if my heart is at peace, then that time and those memories are my home.
——From the exhibition pamphlet
The word “heimart” is a German word. In English, it might be called “home”. But rather than just home or my home, I think it has the meaning of a nostalgic place that one feels in one’s heart, like a hometown or a hometown.
It’s been almost six years since I started living in Germany and having a family, but I didn’t really want to live in Germany, it was just a place I stopped by during my travels, but I ended up staying here for quite a long time. Even so, I think it was a good experience for me to actually put myself in the minority’s shoes, as it gives me the opportunity to learn how to look at home from multiple angles. There are many customs that are considered good in Japan but bad in Germany, or vice versa, and I naturally feel that there is nothing definite about what is good or bad.
Living in a place where you speak an unfamiliar language, eat unfamiliar food, and learn unfamiliar customs is stimulating, but not easy. There are many troublesome things to do, and it is hard to feel like this is your home. At the same time, Japan, my hometown, is getting further and further away from me every day. Because of my habits and personality in Japan, I realized that I was becoming more and more German in my views, thoughts, and behavior. I think it’s like hot water mixing with cold water, or red with red, or black with black. I wonder if I am becoming more and more like a nomadic race, neither Japanese nor German, but something floating in the air. Recently, I’ve been thinking that maybe I’ve been unconsciously moving toward becoming a nomad.
What I often think about when I leave my hometown is the momentary home that suddenly comes to me in my daily life. I wonder if it’s because I’m striving to have a home anywhere, now that I’ve left it. But if I think about it deeply, I think it’s because I’ve come to understand clearly that I’ve been sustained by those moments since long ago. I guess that’s why I had to go to so many places.
For example, in my daily life, I am forced to accompany a child flying a kite even though I don’t want to go. I lie down on the grass that is beginning to die in the vacant lot behind my house and look up at the yellow kite floating in the sky, and I can clearly see the cold light and colors of autumn. The kite is pulling the string from the child’s hand with tremendous force. The kite is pulling the string from the child’s hand with great force, the child is running around like a fool, and I can hear the dog barking in the distance. In these useless, meaningless moments, when time seems to have stopped and I feel a powerful sense of something huge floating in the sky, this is it, this is it. I arrived at the house of someone I was visiting for the first time before the time was up, so I had no choice but to walk around the area in a daze, sit down on a little stone wall, smoke a cigarette, and see the weeds on the side of the road. I sit down on a little stone wall, smoke a cigarette, and look at the weeds on the side of the road, and see the green space floating vaguely behind it. It’s a perfect opportunity to stop time for a moment.
When I am traveling, I often find myself wasting time in the middle of nowhere, waiting for a bus, train, or boat, watching strangers pass by, or stopping in lonely places where I feel lost and abandoned. It may be that we tend to come here more often than in our daily lives. In fact, more than the purpose of the trip, the images burned in those moments are deeply etched in my mind, and I often find myself suddenly remembering them.
On the other hand, there are times when the situation is exceptionally exciting. It was a night when I was camping in the Arizona desert. The full moon was shining and I could hear the cries of coyotes not too far away. My shadow stretched long as I walked along a sandy hill covered with cactus. It was cold, so I put on a thick sheepskin coat, gloves, and a wooden stick as a walking stick. I waved at my shadow, which walked like a stuffed animal, like an astronaut who had arrived at the moon, and made a circle on my head. Suddenly, as if I had been called, I looked back and saw white clouds in the moonlit blue night sky. The sky was so beautiful that I thought I could die right now, and right after I was filled with perfection, the thought came to my mind that I would like to show this to that person in Japan, and tears welled up in my eyes as if I were being pulled back.
I’ll never forget the one time I swam naked in the ocean at night. It was pitch black above, below, and all around. The stars and the tiny white lights of the ships were glittering in all directions. The feel of the warm water was like being in a black jelly, and it felt good to feel the water coming in through my hips. All the fish are swimming naked, I thought again. I felt like I was a turtle or an amphibian washed up on the beach, being welcomed peacefully by the darkness and the sea.
When I was little, I loved nothing more than to get into the car with my family in the middle of the night during summer vacation and drive down the highway at night. It was like driving through the sky, heading somewhere, watching the lights glow in the darkness.
Many of these memories have remained with me since my childhood. From something that I see in a moment that comes to me in a flash, I associate it with something that lies deep within that I cannot reach. When the moment is burned into my mind, I wonder what is hidden in the moment that has become eternal. I strongly believe that there is something in that peacefulness. Something in that peaceful moment always seems to be whispering behind me, watching over me, telling me the path I should take. I read in a book that nomads are people who have lost their homes, and also people who always carry the memory of their homes with them. Wherever I am, if my heart is at peace, then that time and those memories are my home.
——From the exhibition pamphlet